誤審

ワールドカップにおける
イングランドとドイツのそれは66年の大会にさかのぼる。

そして先日の試合で前半、イングランドのランパードのシュートで
それは再び繰り返された。
(ただし今回は真逆の立場となったが。。。。)

審判とは、『絶対的 神の代理人』として
ジャッジを下すことを許された存在。

しかし『神の代理人』も決して完全無欠ではなく、
所詮は人の子、間違いだってたまには起こしてしまう。

テクノロジーの進化で、人間の曖昧さが浮きぼりとなる今の時代、
多くのスポーツの場でも、ビデオにて判定をゆだねる事も数多い。

NFLやMFL等、既にそれらが導入されている。

また、人間の目では判断出来ない、
陸上競技の100m走や競輪、競馬の着順といった
0コンマ何秒のスピードの世界を見極めるために
写真判定が標準装備されているスポーツもある。

先にも書いたが審判だって人間だから
当然機械のように数値で全てを判断する事は不可能。

よって誤審やハプニングも当然起こる。

しかし皮肉な事に、一方で人間というのはそんな情況が決して
100%嫌いな訳でもないのも事実。

むしろ『これで面白くなった』と見る人もいる。

『こんな事でくじけるな!己の力で勝て』と言い聞かせ
キセキの大逆転が起きてしまうと
鳥肌大興奮で、更に盛り上がる人もいる。

負ければ負けたで誰が名付けたか『因縁の対決』と呼び
後々同カードの戦いにその冠言葉を適用する人もいる。

自分はそんな曖昧で不器用な人間本質の姿が大好きだ。

感覚は数値では表せない。

幼少の頃からピカソとダリの画が好きだった。
ショパンとバッハの音が好きだった。
マイヤ・プリセツカヤの姿に涙があふれ
ジョンの言霊に心臓が冷たくなるのを憶えた。

山や川、雪や雷が大好きでも、深海が怖い。。。。

犬の表情が読み取れるように、海の魚の目からも言葉が読める。

相手の事をほとんど何も知らず
初めて会ったに等しい関係なのに
もう20年、30年も前から付き合っているような。。。。
自然と胸襟を開かせてしまう感覚がある。

それらは時々思い出したかのように自分の身に降り注ぐが、
その不思議な感覚には過去も未来も無い。

そして何故そんな感覚が生じるのか?
今もって全くわからない。

いや、わからなくても別に良い。

なぜならそれが自分なのだから。。。。

全てが数値に置き換えられ、完璧以外、
少しのアジ(その人が持つグルーヴ)も認められない事は、
その人という存在事態を認めない事となる。

自分が極端に不器用な人間だからなのか、
そういう感覚や直感をよりどころにして生きている=生きる過程で、
自分を信じる事が凄く重要な事だと知っている。

人間の営みには、常にパラドクス(矛盾)が潜んでいる。
だから、人生は非常に豊かで面白い。

同様にその矛盾があるからこそ、サッカーも面白い。

『誤審』がビデオ判定などにより、完全に排除されてしまうと、
それはもはやサッカーではない。
自分はFIFAがビデオ判定を採用しない事に支持する。

なぜなら

私たちが愛して止まない人間の本質が
そのスポーツにはあるわけだから。

1+1=2って誰が決めたの?
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